2016年12月31日土曜日

アイス・ジョーズ AVALANCHE SHARKS

雪の中からコンニチハ。ありえないが、見て楽しむにはアリなのかもしれない・・。

 雪の中を海中のように高速で泳ぎまくる氷のサメ。僻地のスキー場の突如として現れ、スキー客らを次々と飲み込んでいく。地元の利益や自分の職を守るために、行方不明者の捜索に不熱心な地元民と、正義感ある保安官と不明者家族らが対立する、映画「ジョーズ」的な構図。

 映画の見どころは、追いかけっこのスリルと、雪景色や冬の山・湖の景色の美しさが楽しめるところではないかと思う。

 このサメは、どうやら昔、開拓者たちに虐げられて死んでいった、原住民のシャーマンが作り出した復讐神らしく、祭りのトーテムをたてて、その神を鎮めていたらしい。それが倒れたための事件となったのだが、なぜか、なぜか、スキー客の中に英語の話せない、身元不明な謎の日本人女性がいて、リフトで山の上に登り、トーテムを立て直すという不思議行動に出ている。

アジア系の外見ではあるが、表情の作り方、雰囲気がどう見ても日本人ではない・・。そして謎の行動の原理は、「モッタイナイ」とか、「後始末をして帰る」という日本人行動の模範的部分が描かれたのだろうか。


デッドライジング DeadRising Watchtower


(概要記録のみ)

 ジャーナリストである主人公チェイスが、抑制剤「ゾンブレックス」(露骨な名前・・)によりゾンビ化を抑制していたはずの町で混乱が起きたところに乗り込み、真相をあばくストーリー。「ゾンブレックス」が突然きかなくなり、感染歴のある人達が、次々とゾンビ化を始めたことが発端だが、不良薬配布を仕組んだのは、実は軍だったようである。
 事態の収拾のために、1年間有効なゾンブレックス入りのマイクロチップを、人体に埋め込む方法で鎮圧を始めたが、そこには軍の仕組んだ、ある計画も含まれていたようだった・・。

2016年12月27日火曜日

ファイナルデッドパーティー(邦題) night of the demons

ファイナルデスティネーションシリーズのところに、あたかもシリーズものであるかのように配置されていたので、「犯人のいない連続死亡事故」の恐怖を描いたシリーズだと思い込まされてレンタルした。

どうやら、館に巣食う悪魔の恐怖を描いたものらしい。

ターミネーター2で美少年として一世を風靡したエドワード・ファーロング。・・だったが、アルコール中毒で病的な顔になったり、太ってしまったりで、風貌は大きく崩れていた、そんな彼が、本作に出演していた。

 無断で空き家を借りきり、パーティの入場料を集めて荒稼ぎをもくろむ人、ボスに脅されて、パーティで買い手を探しまくるエドワードファーロング演じる、風采のあがらない薬物の売人、パーティに呼ばれてランチキ騒ぎをするアホそうな招待客たち、露骨にいちゃつきだす人達、どれをとってもなんだかなあ、な人たちばかりのパーティー・・。

 そこへ警察の手入れが入って、多くがそこで会場を後に、追い出されて出て行ったのだが・・。こっそり残った7人が、地下室に眠る悪魔たちの餌食になっていく話。骸骨に手を噛まれた女性から悪魔菌に感染して悪魔に変身してしまう。その風貌はかなり恐ろしく、凶悪である。

 ファイナルシリーズとは違うので、それを期待するとかなり残念で、パーティもかなり下品な感じだが、ゾンビと見まごうばかりの恐ろしい悪魔の風貌と迫りくる恐怖を楽しむなら、いいのかもしれない。

 劇中曲の紹介:
https://www.youtube.com/watch?v=Qs6E2ig_5QY

Zombie Girl - Blood, Brains And Rock N Roll





2016年12月24日土曜日

午後ロードショーより 「バイオハザード」

 言わずと知れた、ミラ・ジョヴォビッチのシリーズ・ゾンビ映画である。この第一作は2002年、今はなき東急文化会館でだっただろうか、渋谷の劇場で公開時に見た。が、テレビでも何度となく放送されるので、すでにおなじみ感が強い作品である。

 なので感想を書くにも、かなり今さら感があるのだが、気づいた部分をピックアップして記録しておこうと思う。

 往年の名作でゾンビ映画の金字塔だと言われている、1978年公開の「ゾンビ」(Dawn of the Dead ジョージ・A・ロメロ監督作品)に出ていた、ケン・フォリーさん演じる軍人のピーターと、本作の特殊部隊のワン隊長がとてもイメージがかぶっている。

往年の名作、「ゾンビ」(1978)今見ても、良い映画だと思う。


(1978年ゾンビ)取り乱す同僚を叱咤激励する、頼りになる軍人、ピーター。(ケン・フォリー)

(2002年バイオハザード/コリン・サーモン)冷静沈着で行動力もあり、頼れる存在、ワン隊長。が・・。

 どちらもかっこいい黒人軍人で、身のこなしが素早く、沈着冷静で適正な判断で仲間をまとめていく、頼れるリーダータイプである。精悍な顔つき・外見もカッコよく、まさに物語をいい感じに引き締めている。

 両者の違いは、最後まで生き残っていたか、死亡終了か、である。
 バイオハザードは、ゾンビ映画というジャンルだが、人工知能の冷徹感が、不気味に描かれている。ウィルス流出の機密保持のために、地下都市で働く人たちを、ほんの数手間で抹殺したAI、「クイーン」。

 ワン隊長の死はあっけなく、クイーンの主電源室前のレーザーで、数秒で全身バラバラにされるという最期だった。そのシーンは、人工知能への無機質な恐怖感を、十分に感じさせるものだった。


2016年12月4日日曜日

壊滅暴風圏 カテゴリー6


なんといっても午後ロードショーの映画は、つっこみどころ満載作品があるので、こちらもそのつもりで突っ込みを入れていこうと思う。

 激しい暴風による、市長のプライベートジェットの墜落から始まり、自由の女神の巨大な腕がもげ転がり、地下非難した人の出口がふさがれる。
 竜巻にのまれたり、強烈な冷気により瞬間凍結してしまった人たちや、高電圧の空気が上空からおそいかかってビルをとりまき、感電死する人たちが出るなど、パニックシーンもふんだんに描かれている。観てからやや時間は経ってしまったのだが、展開的にはそれなりに退屈はしなかったと思う。

 最後は何やらよくわからないが、上空2万メートルの地点でドライアイスをまく、という作戦で、どうにか危機を免れたらしい。


 最後につっこみどころはこれ、冷凍人間シーンのところ。
 発見した主人公がひいっ、とショックを隠しきれない表情を浮かべるのだが、お人形さんを相手に、演技ご苦労様です、としかいいようのないヒトコマであった・・・。

手前の人は生身の本物の人間だとわかるが、奥の人たち・・、特に女性がマネキンなのは、間違いない。
よく洋服売り場においてある、あれである。目が、ない。そしてとなりの男性も、マネキンだと思う・・。伏している子供と男性は、不明。(たぶん、マネキン。)

2016年12月3日土曜日

聖の青春

 二子玉川の映画館のE席は、ゆったり座れて肩が凝らないので利用したいが、競争率が高く、早い日取りで予約を入れないとすぐ埋まってしまう。そのため、やはり見たいと思っていた洋画作品も埋まっていて、人が行きたくない朝の時間帯を検討した結果、こちらの映画に落ち着いた。

 邦画は、かなり興味を持たないと滅多に見ない。たまに見ても、巨額を投じるハリウッド映画と比べてはいけないが、スケールの小ささや、人生観だの感情論だのに終始するストーリーや、結局作っている人の自己満足感が強いところばかりが気になって、結局何が言いたいのやら、心に響かないまま終わったりと、不完全燃焼で終わってしまいがちだからである。(あくまでも、個人的感想です。)

 この作品は、ドキュメンタリー的な色合いがあるので、見ても大きく外さないかもしれない、という予測と、松山ケンイチさんの自然な役作りに一目置いて、E席がそこしかなかったことを妥協させることになった。


ライバルである羽生善治棋士役は、東出昌大が演じている。

  子供のころから重い腎臓病を患い、一生それと付き合うことになったが、それが引き金だったろうか、膀胱がんにかかり、若くして命を落としてしまう、才能あった棋士の物語。
 病に伏せる前からずいぶん不摂生な生活をしていたのだろうか、酒を泥酔するまで飲みまくったり、タバコの副流煙ただよう雀荘でマージャン通いをしていた。吸わなくても、タバコの副流煙は、吸っている人よりも害が大きいそうであるから、もともと病を抱える体には大きな負担となっていただろうな、というシーンが続いた。

 羽生さんの、ひょうひょうとした感じを東出さんが近い感じで演じていただろうか。羽生さんは、私の個人的な目撃情報だが、といっても1997年位だったが、渋谷のセンター街を、すすっ、と、歩いていたのを見たことがある。(見間違いでなければ、ほぼ間違いないと思う。)
 午前中で人通りはあまりなく、また、気づく人も少なかったと思う。最寄りの将棋会館は、現在検索すると千駄ヶ谷が最寄りだが、その時はどこに行っていたのかはわからない。ただ、スーツを来て、気配を感じさせないで人目をさりげなくかわすような、ススッとした感じだった。

 やはり余命少ない主人公がかわいそうに思えたのは、普通に女の人と恋をしたり結婚をしたいという普通の夢がかなわず、自分の病気と向き合っていくしかない寂しさを感じたところであった。元タレントだったかわいい奥さんを射止め、家庭生活も順調な羽生さんを目の前にした、本音だったのだろう。

 聖が病気をしていなかったら将棋と出会わなかったかもしれないのは事実であるし、それを介して知り合った二人だった。が、接点は将棋だけれども、人生は重なることはない。本当にそれぞれだと思う。共有できる、と思えるのは、気持ちだけである。家族同士ですらそうなのである。気持は共有できても、同じ人生は歩めない。人生はそういう意味では孤独なのだから、結局は、自分のために悔いのない人生を送らないといけない(理想論)。