2016年9月23日金曜日

私は幽霊(I am a ghost)




 「私は幽霊」、ドラマの題名によく使われがちな、暗に自分の存在が空気だとか、心が幽霊のようにもぬけの殻だ、という比ゆ的な使い方ではなく、名実ともに本当に死後、幽霊となった主人公の日常~除霊までが描かれている。

 ベッドで伸びをして、朝が始まる。「ファ~ア。」フライパンで朝ごはんの目玉焼きを焼く。食卓で食事をするが、なぜか彼女は途中でナイフを高く振り上げる。画面暗転。洗面所で血のにじんだ包帯を手にまいて、水を流している。暗転。「エミリー?」声をかけられてモップを取り落とす。暗転。家族の写真をいとおしそうに眺めたり、本を読んだり。暗転。食材の買出しに出かけるため、コートを羽織り、外に出る。暗転。そしてまた朝。(順番不同、抜け有りかも)以下、同。

 洗面所での場面以外は、微笑ましい日常である。が、同じことを繰り返しリピート。さすがにこれは・・、と見ていておかしいと思うと同時に、主人公は幽霊らしいので、ぐるぐると同じことを繰り返すのだろうと思った。はたから見ていると気持ちが悪いが、本人はまったく気づいていないし、楽しそうな様子なので、放置していても良いのではと思ったのだが・・。

 この映画の中では(事実はどうなのか不明)、幽霊は、生前の記憶をもとに、成仏できない間はひたすら追体験を繰り返すのだといわれている。
 他の映画やマンガ、書物では、自殺をした人の霊はもちろん成仏できず、自殺の場面を、ひたすら繰り返し追体験しつづける無限地獄に陥るのだという説もあり、だとするととてもおそろしい。

 なぜ除霊されることになったかというと、同じ家に住んでいる人が、音がしたりナイフがとんだり、幽霊の姿は見えなくても心霊現象に悩まされていたため、霊能者がやとわれたのである。

 反対に、エミリーのほうからも、生きている人(というか自分以外)の姿は全く見えない。家の住人からは、エミリーの追体験によってフライパンが動いたり、ということだけが目に見えている。

 自分が死んでいる、というのがわかった時点で大体が成仏するらしいのだが、多重人格だったため、他人格の殺人鬼の男が隠れていて、除霊は難航する。

 因果を理解しだすと、自分の追体験を客観的に見られるようになるんだとかで、同じ動作をぐるぐると繰り返す自分を、その横で、ハア・・、とあきれて見つめるエミリー。殺人鬼男も結果として同じ状態となったため、二つの魂はなんとか、成仏したようだった。

2016年9月22日木曜日

レッドタートル ある島の物語 (The Red Turtle)

 ここ一番の話題作で、ぜひともおすすめの一品である、とか、そういった気負った感じはない。
ただ単に、「映画を見に行きたい」という理由で、レディースデーで見るのに都合のいい時間帯に席があいていたので、見に行った。

 映画「パーフェクトストーム」のような恐ろしい嵐の海の中で一人きりもみして(普通はここで死亡)、なんとか無人島に流れ着いた主人公。彼の脱出するためのいかだを何度も海中から破壊し、阻止を図る赤海ガメ。やがて、そのカメの腹からなんと、女の人が出てきて、主人公と恋して子供も作り、家庭を築く。

 その後、子供が成長し、三匹のカメをお供に島を出て行ってしまい、夫婦は残されたが、やがて夫が老衰死し、妻はまたもとの海ガメになって、海へと帰っていく。セリフもなく、登場人物についての説明もない。

 目の前で起こることだけが、観客が得られる情報の全てであり、ストーリーというほどのものがない。映画の中、澄んだ海、ひたすら広がる砂浜、襲い来る大津波、助け合う家族、などの情景が、しずかに流れていく。

 本でたとえると、大変、詩的な感じがする。
 登場人物はそれぞれ、喜怒哀楽はしているかもしれないが、圧倒的な情景の中で、それはあまり重要視されていない。

 きれいな海で泳ぎたいなあ、見ていると本当に海に漬かったような涼しい感じがするなという、澄んだイメージが残った。

実際の風景にアニメを重ねる手法をとったシーンもあるのかも?しれないが、リアルさ・美しさのある風景は楽しめる。

2016年9月20日火曜日

アフターデイズ・ボディ

 三日間で徐々にゾンビになっていく女性を描いた「スリーデイズ・ボディ」こちらの続編となる。
 そうとは知らず、ジャケットの写真で勘違いし、こちらが「スリーデイズ」のほうなのかと・・。第一作は見ていないので見たかったし、こちらがその作品だとばかり思って借りてしまった。
 再生途中で、あれ、なんか変、というのに気づいて、いったん止めて、エエーッ、と言おうかとも考えたのだが、まあこれはこれで一つの映画だし、見ればわかるでしょ、と思い直した。前作ともほぼ独立したストーリーなので、それで正解だった。

再生終了ストップしていたこのTV画面を見た母が、「気味の悪い絵ねえ」と。
どうしてもジャケット写真での明らかなイメージ偽装にひっかかったり、自分で間違えたり、まがい物をつかんでしまったりして本来の希望と違うものを見ることも数点あるが、それはそれで、ご縁だと思って見ることにしている。

 どうやらゾンビウイルスを撒き散らす主犯格の男がいたらしい。そいつが悪さをするのを、本作の主人公がつきとめて、最後の最後に(ゾンビとして)息の根を止める結末だった。

 ストーリーとしては比較的ありきたりな感じ?で、ウイルス感染後、肉体の変化がすすみ、網膜がにごったり皮膚が変質したり、どす黒い血を吐血したりと、その行程を見せて、ウエエ・・という気持ち悪さを感じさせるところが、一番のインパクトを与えている部分だろうか。

 欧米でありそうなカジュアルスタイルな「個人をしのぶ会」、映画内では「アリスの人生を祝う会」と言っていただろうか(アリス:前作の主人公の友人)。
 アリスの身内の家に親しい友人知人が集まり、立食風のこじんまりしたパーティ形式をとって、一人が楽器演奏をしてアリスに贈る歌を即興で歌ったりしていた。
 形式にこだわらないながらも、温もりというか、やさしさがあるというのか、これはこれでいい「しのぶ会」だなあ、とぼんやり見ていた。

 そこに主人公が激しい耳鳴りや大量の鼻血に見舞われ、鼻血がスープにポタ、ポタ、ポタ。本人があわてて退席してトイレに逃げ込んだ後、アリスのお姉さん?がこともあろうか、おいしそうにその鼻血スープを召し上がっていた。スープに血が浮いてるのに、見ていなかったのだろうか・・。(もちろんゾンビ化フラグ確定である)

 こちらも主人公のゾンビ化・射殺、と誰も幸せになれないエンディングだったが、悪の枢軸が主人公にかみ殺されて、決着がついたのだろうか?


 

2016年9月14日水曜日

ラストサマー (I Know What You Did Last Summer /1997) 午後ローより

副題をつけるなら、「カギ爪男は死なず」である。
 この映画は割りと有名で、いろいろな放送網で放映されているけれども、なんとなくチープな感じがして、きちんと視聴したことがなかったのだが、今回はまじめに見てみた。

 砂浜でたわむれる4人の男女の会話に出てくる、カギ爪男の話。「車を引っかく異様な音がする。男のほうが調べてくると言って車を降りたが、様子がおかしい。ひっかく音がポトンポトンという音に変わり、それは木にぶらさがった彼の死体からしたたる血だった。」だの、アメリカンスリラーらしいほら話であった。
 個人的にはそういう話より、車からは降りなかったが、家に帰り着くと血のついたカギ爪が車に突き刺さっていた、という最後にしていた話のほうが好きである。

 本編に戻る。これまたアメリカ映画らしい、イチャイチャダブルデート(ここもチープな演出)の帰り、浮わついた運転をして夜道で人をはねてしまった。何が何でも警察に届け出たくない。停車中を知人に見られたため、証拠隠滅のために遺体を捨てに行く。
 途中、息をふきかえしたのに隠し通すため湖?に沈めてとどめをさす、という悪質さ。どう見ても殺人なのに「いいか、事故だ。事故だったんだ。俺らは、誰も悪くない。」と言い放つ男は強引だった。
死んでるよ・・。どうしたらいいんだ。そうだ、何もなかったことにするんだ。

 車にはねられ重傷を負い、水中に沈められて、なお生きていたというありえなさ。そして死ななかったこの怪人がカギ爪男となってみんなを襲い、殺していく。

恐怖のカギ爪男。このいでたちもチープである。
ちょっとがっかりだったのが、カギ爪男が後半、マスクをとった普通の私服姿で登場し、ただの「気違いオヤジ」の外見になってしまったことである。死なないで神出鬼没なのだったら、モンスターなのだから、顔は割れないほうがいいと思うのだが・・。

 カギ爪男が手首を切断して海に転落したので、死亡が期待されたのだが、最後は襲撃必至の?シャワーシーンになった。生き残った女の子が一人、シャワールームに。「去年の夏のことを知っているぞ」という落書きを見たあと、まもなくそのガラスがバーンと割れて、何かが襲ってきた。

 これもなかなかチープな感じのエンディングとしてまとまっている。





2016年9月13日火曜日

大洪水(De Storm 2009年オランダ)

レンタルDVDのサイトだったか、ショップだったか忘れてしまったのだが、DVDチラシのようなものにひっかかってしまったのがきっかけで見ることになった。

たしか、これにだまされたのだと思う。ディザスターパニックものだと思ったのだが・・。

公開された国では、内容にきちんと沿ったものが出ているようで、上部掲載のものとは大違い。

 
偽装もはなはだしいのにあきれかえったが、内容は見てみて、まずまずだった。常に牧歌的なオランダの農村部を背景に、腰~首くらいまで浸水した中での人々のやりとりがメイン。人生ドラマそのものより、農村である雰囲気が崩れないまま、遠浅の水がずっと満ちている風景が美しく幻想的で、個人的にはそちらが見所だったと思う。

主人公を助け、後のパートナーとなる人物との出会い。

主人公は何度も無理を言って赤ん坊の捜索に出る。

村人の多くが、このホテルに避難し、上階部分に身を寄せた。
細く盛り上がった道の部分だけ、どうにか水没をまぬがれている。

ストーリーは、嵐で海水が内陸部まで押し寄せ(オランダは、土地が海水面より低い地形である)、一時期は家屋の二階部まで水がきて、家族たちを失ったりする中、主人公の女性が、自分の産んだ赤ん坊を見失って必死に探し回るあらすじ。

 その当時の1953年の世間では、未婚の母が異端扱いされ、差別され疎んじられていて、映画の中でも主人公は、父親にも子供の存在を認めてもらえず不遇な立場にあった。彼女の、何事にも意固地になるその頑固で自己中心的な行動にたびたびイラッとしながら見ていたが、結局生まれた子供は、子供を亡くした別の母親がこっそり連れ去り、そのまま18年たってしまう。そして、やや気の毒な結末を迎える。
 大堤防の落成イベントに出席し、ふとしたことで生き別れた子供と再会するのだが、子供はやはり、生みの母である自分にではなく、育ての親のもとに歩み戻っていく、というラスト。



2016年9月12日月曜日

2012 Doomsday (和名:2012)

画像はストーリー上のイメージで、このようなシーンは、なかった

ディザスターパニックものという分類なのだろうが、実際の大災害シーンは、ほぼ、ない。
雪や雹(ひょう)のふる部分が、CG画像で出てくるだけである。

通信通話をしている会社員の会話で、災害が世界的規模なのだということだけ演出されている。

このような地味で低予算な環境の中、不思議を感じさせるのは、使命を終えたと思われる人物が、ある瞬間に忽然と姿を消してしまうところ。

嵐にもまれる乱気流をなんとか乗り切る二人乗りの小型ジェット。その中で死んだ家族への思いを語り合う二人だが、無事着陸がすんで、飛行機を出してくれた友人が、自分の役割はここまでだ、と言ったあと、ふと目を離した瞬間、忽然と姿を消している。

目的地に向かう車内で語り合う母と娘。私は神様を信じるし、この世はすべて神様の贈り物。あなたも最高の贈り物だった、と心安らかな表情で語る母。エンジンの不調で娘がボンネットをあけて調べるうちに、こちらも忽然と消えてしまった。

神を信じる者が世界の終わりの前に神に天に引き上げられる、という以前に書いたニコラス・ケイジの「レフト・ビハインド」映画の話のような状況を思わせた。

最後は、同行者が途中で亡くなるなどつらい思いをしながら数人の男女(臨月の妊婦と女性二人と初老にさしかかりそうなおじさん二人)がマヤの遺跡にたどり着く。そしてそこ以外は崩壊の危機に陥り、世界が終わるのである・・。最後にその遺跡の中で誰かが言った。「この世はこれで終わるの。そしてまた、この場所でこれからが始まるの。」(そんなばかな)